日曜日の恋と登山

冬は寒いからふさはしくないが、夏の朝の朗らかな日、恋人の手を引いて山に登る楽しさは格別である。

恋人同志のためには神戸ほど恵まれた土地はあるまい。

恋人がランデ・ヴーを承諾しても、いちばん困るのは場所の選定である。たつた二人だけで誰にも気附かれないやうな場所といふものは、泊りがけで出かけない以上さうさう容易く見当らない。

殊に、女が夜は早く自分の家へ帰らなければいけない状態にある場合は、彼と彼女は只いらいらするばかりで甚だ面白くないものである。芝居もつまらないし、公園も人が多い。

「山があつたらなアー」

東京の恋人同志は、いつも近くに山のないことを歎いてゐる。

それが神戸はどうだ。再度、摩耶、六甲の三山々控えて、彼と彼女はどんな処へでもかくれることが出来るのだ。

夏になると再度山に登る人は極めて多い。諏訪山公園のすぐ麓が再度山の登山口になつてゐて、日

曜日以外の日でも、数百人のサラリーメンたちが出勤前の時間を利用して長い長い列をなす。

山は高く、深く、おまけに老松巨木が鬱蒼と繁ってゐるし、冷やりとした空気は満山を壓してゐる。最近では若い女事務員やタイピストたちまで、雄々しい男子の列に伍して登って行く。

岩の上、溪間の蔭に赤い赤い花が咲く。

恋人同志はいゝ加減に登山辺を歩いたら、ぐんぐん密林の中へ姿を消す。叢は彼等をまもり、彼等は互ひに息を呑む。四隣寂として、聴ゆるものは只ひようひようたる風の音と水の流れだ。

これほど安上りのランデ・ヴーが他にあらうか?彼は彼女と共に喰べるお弁当の用意と、彼女をして朗らかならしむるために一瓶のカクテルを携へてくればそれでいゝ。

摩耶の登山者も年々歳々増える一方で、こゝは西国三十三ヶ所第何番目かの霊地である。だから恋人同志は余り摩耶山へは上らない。霊地を穢すものには恐ろしい崇りがあると云はれるし、いくら何でもお宮での密会は気がひけやう。

だから、そんな場所は敬遠しても、神戸の恋人同志にいたる所に身を隠す場所を恵まれてゐる。熊内二丁目で市電を下車し、布引の瀧を見て、それから山奥深く入つてもいゝし、須磨の方へ出かけて もいゝ。

兎に角、夏の日曜日には、夫婦気取りで山を歩いてゐる若い男女に必らず三組や四組は出会はすのである。

山は一銭の席料も取らないし、一厘のチップも不要である。

もし再度山みたいな山が東京の新宿附近にあつたとしたら如何であらう。あまりに登山者が多すぎて、結局ない方がいゝと云ふことになるかも知れぬ。

夏が来るたびに、神戸の街がなつかしくなるのは、あながち僕一人だけの経験ではなく、神戸に二三年も住んだことのある人は誰でもさう思ふであらう。

海と山、二つ乍らに恵まれた神戸の恋人同志は幸福である。

特別な野心さへもたなければ、諏訪山公園など散歩するには最もふさはしい。夏の心など若い男女の二人づれが、そこの木影、こゝのベンチに相寄り添ふて囁いてゐる。

眼下には明るい夜の神戸の街が展け、港には船の灯が螢火のやうに明滅する。

「チェツ!うまくやつてけつかるナ。」

闇の中を忌々しさうな声が飛ぶのも、端で聴いてゐると滑稽である。

芸者をつれた若且那、活溌なモガとニヤケたモボ、女学生とバラケツ(不良)などが、春から夏へかけて諏訪山公園を占領する。

そして、彼等は暗い場所、暗い場所へと進んでゆく。

山の恋は神秘的である。