波止場附近のガイド

神戸の生命は、あのエキゾチックな朗かさである。

欧羅巴一帯はもちろんのこと、印度、南洋、支那あたりから来る外人客は、いやが応でも神戸で下船するし、その反対に、日本から出かける人は否が応でも神戸から乗船しなければならない。

だから僕たちが欧洲から帰つた場合でも、アメリカ経由でない限り神戸で下船するのは当然だ。

さて、その神戸といふところは果してどんな所か。

日本全体の輸出入総額の六十パーセントは神戸であり、東洋随一の開港場なのだ。外人の多いのも日本一なら、細くて長い街の形も日本一か?

併し、そんなことはボクたちにとつて左程うれしいことではない。

神戸でうれしいのは、あの底無沼のやうなえたいの知れぬ秘密境である。

ミス・ヨコハマの色彩が飽迄アメリカ式であるのに反して、近代都市としての神戸の色彩は、インタ

ーナショナリズムカクテルだ。だから、神戸のモガに云はせれば、一切の流行に対しては神戸の女がいちばん敏感だと威張るのである。

けれども、そんな空威張りをしてみたところが、矢張り洋装のスタイルは関東がいゝ。と云ふと

「コラ、あんまり神戸の人間をナメるない。つまらんことベラベラ喋舌つてけつかると、パチンコ(ピストル)でひと思ひ殺つてまうたるか。」

と、例のバラケツに凄文句で脅かされさうだが、併し事実に飽迄事実である。

ところでその秘密境であるが、神戸のエロ・グロ方面の正体を掴み出すことは、永年神戸に住んでゐる人間でも知らないものが多い。もちろん、さういふ僕自身だつて神戸の地理には余り詳しくないの であるが、いくら地理の詳しい人だつて知らない人はまるつきり知らない。

先づ順序として神戸のガイドのことから話しをすゝめやう。

最近でこそ大きな都市の客引は殆んど人力車夫が副業的(或はこの方の収入が正業よりも多いと思ふが)に独占してゐるが、その一部分は今尚ほ依然として、職業的ガイドの一団が根強い網を張つて ゐる。

殊に、神戸は昔からこのガイドの出没は有名なもので、なかには四ヶ国語ぐらゐ平気でベラヽと喋舌る人間がいくらでもゐる。

ボクなども往々にして外人と間違はれ易く、神戸のガイド君にはいとも叮重な態度で英語で語しかけられた経験がある。

メリケン波止場や、外人居留地の辻々には今日でも旺んにガイドが出没する。それが比較的世間へ知れないのは、彼等は日本人をてんで問題にしないからだ。

規則的に習つた語学でないから、それがブロークンであることは云ふまでもないが、然し要領をハツキリさせる点、に於ては、専門学枝出身者と雖も到底彼等の足元にも及ばない。

近頃ではガイドの収入著しく減少して欧洲大戦当時の夢は見られなくなつたといふが、その頃は、多い月で四五百円、少ない月でも二三百円にはなつたと云ふから、ガイド、ガイドと馬鹿には出来な い。

外国の気船が神戸の港に入港して、マドロスたちが上陸する時刻を見計つては、それを待伏せして旺んに誘惑するのであるが、交番の前を歩く時などでも平気で肩を並べて勧誘出来るのだから楽な商売である。なぜつて、彼等がどんな会話をしたつて、なかヽ交番の巡査には彼等の話は理解できないし、ガイドだつて相当りゆうつとした身なりをしてゐるのだから、彼等が何を語り会つてゐるかゞ理解出来ない以上訊問することも出来ないではないか。

「今貴様は何を話してをつたか。アーン。」と訊いてみたところで。

「あちらの面白い話しをきいてゐました。」と答へれば

「さうか、それに間違ひないか。アーン」

といふより如何とも方法はないのである。

そんなわけで、警察でもずゐぶんガイド檢挙には苦心したが、要するに苦心するだけで、彼等は公然と自分たちの仕事にいそしんでゐるのだから世話アない。

なにしろ戦時中の神戸は成金郡市と言はれた位だから、あの当時の景気ぶりと来たら全く素晴しいものであつた。

余談に亘つて恐縮するが、その面白いエピソードを二つ三つ紹介すると、今の政友会代議士内川信也君などもボロ船ブローカーでしこたま儲け、一介の会社員から一躍大会社の社長に躍進し、須磨の 別邸へ据える庭石を京都の鞍馬山から運ぶのに、一個一万円の運搬費をかけて八つも据えたといふから豪勢なものだ。

湯浅商店の社長が中山手に五十万円の自宅を建て、山下汽船では社員のボーナス五十ヶ月分なんてまるで嘘みたいな話しが実際に行はれたのだから仕方がない。

又、先年日本の財界に一大センセイションを捲き起し、モラトリウムまで惹起せしめた鈴木商店なども当時が全盛時代で、鈴木ヨネさんの一人息子、岩吉とか岩平とか名前は忘れたが、このドラ息子 は素晴しい豪遊を連日連夜かゝさなかつた。店には御大金子直吉氏が頑張つてゐるが、余り怜悧でもない癖に鈴木の息子は会社に出たがつて仕様がない。そこで直吉氏が

「あんたは家でおとなしう遊んでゐなはれ。店のことはちつとも心配することないさかい。小遣が 要ればいくらでもあげまス。一日千円小遣をあげればどうにかかうにか間に合ひまつしやろ。」

一日千円と云へば月に三万円、一年に三十六万円の小遣だ。だが鈴木の息子は考へた。

「一日たつた千円か、千円ぢやちいと心細いぜ。」

と言つたといふから、なんと開いた口が塞がるまい。

それから、現在も湖川新開地の角にある聚楽館だ。今でこそ下らない活動写真館になり下つたが、あれを建てたのはマッチ王瀧川儀作を始め神戸財界の巨頭連で、

「この劇場は我々の娯楽機関にしてもかまはないので、芝居をやつて見物人が一人も入らなかつたら、我々の家族だけで見ることにしやう!」

と、神戸の貧乏人どもの度肝をつぶしたものだ。けれどもいつの間にか彼等の大法螺もそのまゝになつたらしい。

そんなわけで、神戸の街は夜も昼も湧き返るやうだつた。

某銀行の頭取が、福原共立検の名妓いちまにすつかり惚れこんで、一晩の特別祝儀に一万円投げ出したのもその頃である。

一万円投げ出したことは、僕たちが五十円出す程の痛痒も感じないのだから何でもないとして、その対手の芸妓の云ひ草が愉快なのである。

「ヘン勘忍しとくんなはれ。一万円バッチの金でけんたい面をされてはやり切れまヘン。」

と、女将や周囲の人々の切なる勧告をものゝ美事に突つ放ねたのである。

勿論、彼女としては柳原芸妓に対する面当もあつたであらうが、兎も角共立検をして名を為さしめ当時轟々たる反響を呼び起した。

かうした拝金主義全盛時代に、名妓いちまは敢然として唾を吐きかけたが、一般のならはしはさうでなかつた。

普通の遊びではつまらなくなつた人間が多くなるに従つて、彼等の要求を聴き容れる私娼の跋扈が著しくなり、大神戸が魔境と称されるに至つた素地を完全に形づくつた。

そして、この私娼窟とガイドの堅い握手によつて、神戸の私娼は実に猛烈な飛躍を始めたのである。

こゝに大戦当時のいろヽなエピソードを拉し来つたのも、要するに神戸魔街の一大転機がその頃にあつたからに他ならない。

現在神戸にゐるモグリのガイドは、その数凡そ百人位とも云ふし、いやもつと多いといふ人もある。

然し、ガイドを専門的な職業として生活してゐる人はせいぜい四五十人が事実らしい。

今日では外国のマドロスたちも怜悧になつて、ガイドの手を煩はさなくてもチャンとニツポン娘の巣窟を知つてゐるのだ。

いや、日本のマドロスたちよりも彼等の方が詳しいかも知れない。

もし諸君のうちで神戸の仙境を探りたい人があるなら、三宮駅あたりの車夫に

然し、彼等が案内して呉れる所は、極めてありふれた娼家で、ナイト・クラブ式な魔の家は矢張り専門的にやつてゐるガイドの手を煩はさないと駄目である。

彼等一味の中にはなかヽ勇敢なのがゐて、外国船が入港するといち早くランチで乗りつけて契約して来るのがある。

嘘かほんとか保証は出来ないが、ガイドなんてまだるつこいといふので、入港した外国船へ単身乗りこんで行つて貞操の切売をやつてゐる尖端ガールさへ出現したといふ。但し、下級船員は対手にし ない。対手にしたくても、下級船員は自分だけの部屋をもつてゐないから都合が悪い。

さう言へば日木の船が外国の港に入港しても、チャンと女の方から船へやつて来ることはありがちなことだ。

こんな売笑婦がジャンジャン増えて来ると、ガイド商売はあがつたりになる日が来ないとも限らぬ。

第一その方が手取早く問題を解決するし、たとへ二割でも三割でも、仲介料をせしめられないだけでも気が利いてゐる。

ところで、ガイドの話はこれ位にして先へ進まう。