道頓堀を廻る色町の繁華は、これ又僕たちの見迯し得ない歓楽の巷でなければならぬ。
東京では芸妓と云ひ、関西では芸子といふ。それと同じやうに待合遊びを茶屋遊びと云ひ、お酌を舞子と呼ぶと云つた風に、それぞれ名称が異つて来るのも面白い。
カフェーと女給の華々しい進出が、芸子とお茶屋に手痛い打撃を与へたことは大阪も東京と変りはないが、カフェーで飽き足りない人間は、またやつぱりもとの古巣に舞ひもどりて、お茶屋遊びにうつゝを抜かしてくれるからありがたいもの。
「この頃の女給はもうまるで淫売や、あんなもんつゝいたつてしようムないさかい、わいはもうカフェー遊びは止めや。」
ドラ息子がかう云つてお茶屋の女将の機嫌を取れば
「ほんまに女給はんなんて行儀が悪うおまつせ。」
と、自分の商売の提灯を鼻高々と持つのである。
男といふものは横着なもの、女がいふことを聴き容れるまでは熱中するが、一日聴き容れて了ふと興味も愛着もあつたものではない。エロエロ女給も、金で自由になることが徹底すれば、暫ては又彼女たちの飽かれる時代も来るであらう。
さうした時節が到来するやうに、そして、もつと景気がまくなつて大小成金が蛆の如く湧いて呉れるやうに、全国の芸妓ガールは日夜お稲荷さまや聖天さまに参詣して、口の先だけでなく心の底から 念じてゐるのだ。
大阪で南地と云へば、少しでも物心ついた男には、極楽浄土のやうに考へられてゐる日本有数の大花街。
夜の道頓堀に映る宗右衛門町のあの艶めかしい灯影は、表通りの絢烱眼を奪ふネオンサインの輝きとは違つて、何となく身も心も吸ひ取られて行くやうな懐しい愉趣を漂へてゐる。
島の内芸子と云へば、ダンゼンお高くとまつてゐる点に於て、新橋芸妓に匹敵する。
一夜に百金を投じなければ一緒になられない妓もあるし、百金でも首を横に振る妓もあるといふ。けれども世の中には、普通のサラリーマンの三千年ふん退職手当を貰ふ会社の重役もあれば、一分間 に十円つゝの収入がある相場師だつてゐるのだ。
百円パツチの鼻糞みたいな金は、一夜人命を預かる代価としては、その余りにも安つぽいのに驚く人間だつてゐないとは限らぬ。
女給にチツプの五千円もくれて、涼しい顔してゐた学生さへゐるのだから、あれこれとおつ魂消てゐた日には、人生バカバカしくて生きてはゐられまい。
格式が高くて宗右衛門町がいやだと仰言るなら、南地五花街といふて、九郎右衛門町もあれば、千日前の入口から東へかけて坂町の二三流の芸子もゐる。芝居裏も気安く遊べるし、もつと気品を重んずれば南へのびてがある。七百軒の待合に子五百の芸子が巣喰つてゐるのだから、懐ろ工合でどんな遊びも出来やうといふもの。
芸や唄はどうでもいゝからといふ野暮天には、これ又野暮天むきの送り込みがあるから、そこに如才はサラサラ御座らぬ。一本十五銭の花代を一時間十二本と見て一円八十銭、二時間で三円六十銭。席料その他で拾円もあれば兎に角南地でお茶屋遊びが出来るのだ。安上りに円満解決をつけたい人は芝居裏に入って浪花でも東雲でも、その他真砂、川駒、米屋などで一現の交渉をされるがいゝ。
それとも、金の使ひ場所に困ってゐる方があれば、一流芸子を招いて宗右衛門町の富田屋、大和屋、伊丹幸、大西屋、河合などいふ一流茶屋で、何を云はわても
「ウム、ウム」
と、大きく頷いて紀文大安の向ふを張り、云ふがまゝに大盤振舞をして小切手帖でも預けっぱなしにしてをけば、至誠たちまち天に通じて、神女でも天女でも御意の召すまゝにその効果は現はれて来やう。
昔から宗右衛門町には熱情家の妓が多いといふ評判だし、ロマンチツクで、清純で、数々の物語りにも涙ぐましいのが絶えないとのこと。人間男と生れて、一生に一度はしみじみ自分の果報を喜こんでみるのも悪くはなからう。
たゞ島の内ではエロ中心で遊ぶよりも、気分本位で遊ぶ人の方が歓迎され、顧客のいゝのを誇ってゐるのも宗右衛門の伝統的精神であらう。
有名な河合ダンスと云へば、たまに東京にまで進出して、東劇や帝劇あたりで公演するが、これも宗右衛門町の河合といふ待合が、モダニズムに適合するために始めた仕事で、スターの駒菊さんにわ ざわざフランスまで踊りの稽古にやったといふのだから、待合の爺にしては話せる方である。
又、見方によっては茶屋の衰微を物語ってるるとも云へやう。
押しも押されもせぬ古くからの地盤があり乍ら、大和屋あたりでも「やまと倶楽部」など設けて、ソシアル・ダンスなど始めたところを見ると、矢張り時勢といふものには意志を曲げても、これに追従 するのが怜悧なやり方であるのかも知れない。大和屋の小女餐成所と云へば、恐らく日本には珍しい芸子の学校で、同所からは多くの一流芸子を生み出し、近く第十六期生が卒業するといふから、これ も宗右衛門町の変り種の一つであらう。
かくして、モダニズムの凡ゆる瀰漫は、やがて宗右衛門町の伝統を破つて、一現の客でも自由に出入せしめるやうな時朗が来るかも知れない。銀行家の集合だとか、堂島あたりの実業家の招宴にお約束で出かける南地芸子は、この後果してカフエーのエロエロ女給とどんな対抗戦を見せてくれることやら、彼女たちの存在はあくまでも踏み止まらせてをいて、夜の花の彩どりを永久に美しく複雑なものにして欲しいものである。
わけても、一月十日の今宮戎神社の祭礼の夜は、南地の芸子を乗せた「宝惠駕」が見られるだけでも嬉しい。
派手ないでたちのたいこ持が、紅白縮緬の綱先を握つて
「ホウエカゴホイ、ホウエカゴホイ」
と曳いて行くさまは、土地の人々の好奇心をどれだけ唆り立てるか知れないではないか。
あしべ踊りと共に南地の二大名物として、かうした特種な状景は何人が見ても眼の毒にはならないのである。
南地以外にも大阪の花街は到る処にある。後がつかえてゐるから簡単な紹介のみに止めてをかう。
新町などは歴史的にも古いし、堂々たるお茶屋の構へも浪花隨一と称されてゐる。
昔から豪遊客の多く遊んだ土地で、未だにその気風が残つてゐる。
変つたものと云へば茨木屋のキャバレーなど有名で、モボやモガに紛した芸子が、ソシアルダンスやらレヴユーなどを演じて大いに新しい所を見せる。
帝劇で益々愚作を上演して見せてくれた益田大郎冠者も新町の顧問格なら、西条八十も、岡本一平も新町行進曲の歌を作つた。
文人や美術家と機会あるごとに何等かの連絡を取らうとする心構へは、こゝの役員の頭の新らしさを思はせるものがあつて愉快だ。
芸妓も粒が揃つてゐるし、ケチケチさへしなければ、それこそ百の百、千の千で、それしや仲間には評判がいゝ。
南地のあしべ踊りに対する浪花踊が四月に行はれ、一年中何だ彼だと催し物をやつてゐるのも新町
の特色であらう。
次は北の新地、これは浴称で実際は曽根崎新地である。近松巣林子の戯曲はこの土地を題材にしたのが頗る多い。江戸の柳橋によく似てゐる。クラシカルな点も、客節も、伝法肌と云つたやうな点も似通つてゐる。
芸の冴えといつたやうなものが重宝がられ、又、それを自慢にしてゐることなどいよいよ柳橋そつくりではないか。
二百年の歴史と、七百の芸妓と、二百に近い待合、而も芸妓が役者ずきなことに於ては大阪一、それだけに芸ごとに熱心なのかといふと、なに役者とイチヤツクのが好きださうな。余り自慢にもならぬが、磯ぶしや安来節だけしか唄へない醉払ひと寢るよりはましかも知れぬ。
このガッチリした古典的な廓にも今やモダニズムが寸隙を狙つて侵入しやうとしてゐる。北陽芸妓の裸か踊りも近いうち見られよう。
更に南へ転じて新世界がある。
こゝは南地につぐ歓楽郷で、映画、二流芝居、動物園や通天閣や、すぐ近くに天王寺の公園、音楽堂もあれば公会堂もある。
ジャズ、カフェー、ブカブカドンドン、いや大変な賑はひである。
ごもく飯をジョーウインドウに哂した飲食店、あいまいや等々。
これだけの繁華さだから、もちろんお茶屋のない筈がない。南陽芸妓と称するのは即ち新世界の妓のことである。
演舞場ばやりの大阪つ児は、演舞場がなければ花街でないやうに心得てゐるので、目下着々進行中である。
南地や新町に負けるものかと、ダンゼン躍起していろんな新しいところを見せてゐるのはなかヽ侮り難い。
フワウンテジバスなどいふ新式な遊び場所があつて、早朝から湯はカンカンわいてゐるし、余興も見れるし、飯も喰へるといふモダン浴場である。
さうかと思ふと、電気館といふ旅舘兼料理屋では一切合切電気仕掛、芸妓も呼べるし、送り込みも叶ふといふ。寝室の扉から、ベットの動搖まで電気仕掛かなんて、さうさう際限なく望まれても、それはちと無理な御望みであらう。
こゝの地盤は吉田磯吉さんみたいな大親分ばかりの縄張りだから、醉払つてあんまり無茶なことをするといつどこで
「おや、わいの眼が片一方なくなつたぜ。」
などゝベソをかくやうなことになるかも知れぬ。つまらない腕自慢など禁物である。
無理云はいでも、南地や新地に負けんいふとるのやさかい、おとなしく綺麗な姐はんたちに抱いて寝て貰ふた方がよろしうおます。
シャツも多いし、芸も達者、それで文句や不服があるならぶん擲られても仕様おまへん。ベラ棒な銭くれい云ふのやないよつてナ。分りまひたか。
芸妓本位の廓はそれ位にして、娼妓本位の廓を散策しやう。
松島遊廓と云へば、京の島原、江戸の吉原と並んで日本三大廓の一つだ。娼妓の数が四千といふから吉原に負けない。
松島移転問題でだいぶん世間を騒がしたが、今はその噂さへ消えて了つた。
東京の廻しと違つてこゝは時間制限である。実際あの廻しといふ奴は不愉快だが、時間制だつて矢つ張りそこには抜道もある。
桜筋が何と云つてもいちばんいゝ。丸い瓦斯燈の光りが葉桜の枝を透して漏れるのも廓らしい気分である。
「えゝ、どうぞお上りやす。」
裾を掴んだり、肩先を抱きすくめるやうにする番頭の手を振り放すのがなかヽ骨だ。
「あんたはん、東京から来やはつたの。妾えも一ペン東京へ行きたいし。」
娼妓の部屋で胄の歓を盡してゐると、どこからともなく江州音頭が聴えてくる。
夜更の十二時再び表に出る。
これが夏ならば、まだ浴衣がけの嫖客がゾロヽして、煙草を射落さうとする空気銃店の前にも、焼鳥やの前にも一ぱいの人。
博多節の尺八の音が流れ、醉つ払ひの―テナモンヤナイカナイカ道頓堀よが弾けるやうに聴えてくる。
その他、どこの廓の気分も同じである。
松島よりもデカタニックな気分が濃厚なのは飛田の遊廓である。
色彩も近代的である。玉突場や、立派な風呂や、ダブルベッドや、支那式の寝台をつけた店もある。洋装した遊女もゐる。
真夜中の二時三時頃出かけて行っても、飛田へ行けば決して食ふものに困らない。
十二時一時は宵の口である。どんなにお腹が空いても、二時三時に何だって食へる。
ほかの真似の出来ないところ、二次会、三次会が多いのもそのせいである。
遊女だって二千人からゐる。花代だって一本十五銭で一時間十本だから、仕切をかけ合りて遊ばなくても高は知れてゐる。
新興地帯として長足の進歩めざましいものがあるから、更に夏に発達することであらう。機転を利かした連中は、早くもこの附近に怪しい構への家を建てはじめた。
その抜目なさには只々驚くの外はない。