道頓堀のエロ女給、その名は今や天下に響いて、モボやモヂの血を湧き立たせること一と通りではない。
道頓堀の色彩が著しく近代化したのは、これ即ち大カフェーの進出と、夥しい女給群の浸入と、それに引きずられて、ジャズや踊りが後から後から流れこんだお蔭である。
カフェーと云へばニキビ面の青年が、咽喉の喝きを止めるのに一杯十銭のコーヒーか暇所位にしか考へなかつた中老連も、今ではどうして。若いものそちのけの巫山戯きつたていたらくである。
嘘だと思ふなら道頓堀のカフェーを軒別に覗いて見給へ。
若い者の神妙さに比べて、中年男や老年に近い禿頭連が、好色版画でも見るやうな場面を洒々として僕たちの眼前に見せつけるのである。
「かう見えてもわいはまだ若いのやで。なにもさうツケツケせんかつてえゝさかい、もそつとこち らへ寄りな。
醉り払つた元気て、グツと女給の肩を抱きすくめたモヂもゐれば、酔払つて気焔をあげてゐる女給もゐる。
「今度こそ嘘いふたら承知しまへんぜ。いつにしまほう。早うきめんと又気が変るといけまへんよつて、一緒に行く日きめときなはれ。どうせ休むんやつたら一日休んだかて二日休んだかて、そんなことかめへんし。あんたの云ふことやつたら妾えなんてもきくさかい。だますのだけは勘弁しとくんなはれや。」
「うまいこといふない。お前がどんなていさいのえゝこといふたかて、わいはちやんと知つとるんやぞ。お前この間宝塚ヘフーさんと一緒に行つてその晩かへらなかつたらう。お前がどこへ寝て、どんなことして来たかまでチャンと調べてるのやさかいえらいもんやろ。」
女給は真赫になつて俯向いたが、それでもテレ臭いのを耐へて、
「そんな見て来たやうな嘘つくもんやおまヘン。」
と、対手の膝のあたりを抓つてゐるのがしほらしい。
今でこふ禁ぜられたが、あの紫光色の電燈で室内の明るい光線を遮ぎつた心使ひは嬉しいものであつた。
軽快なフイリツピン・ジャズバンドの音に耳を傾けながら、女と一緒に並んで、ジャンジャン酒を呑む気分は悪くない。
赤玉、日輪、ユニオン、美人座など、揃ひも揃うて女給のサービスはズバ抜けてゐた。
愛想がよくて、障りが柔かて、少々の無理に対しても柳に風と受け流す風情に至つては、そこに関西女独特の情趣がある。
実際、夜の道頓堀川からこれらのカフェーの状景を眺めて見給へ。殊に夏の夕暮など女給の姿が淡い燈灯の間にチラホラして、浮き立つ様なジャズの流れが耳朶を突いてくると、もうぢつとしてはゐられなくなる。
ケバケバしい点、ウインクの巧みな表情、ハツキリした態度、さうした点に於ては東京のエプロン・ ガールには叶はないとしても、エロチシズムに対する臆せない態度に至つては、関西の女が遙かに大膽で卒直である、
これは学生やモボが東京に比較して遙かに尠いのと、彼女たちの許へ詰めかける客がその大半は中年の男であると云ふことに基囚してゐるのかも知れない。
ちよつとした会話もすぐにエロの方に転向し、客のピントも亦そこに向けられてゐる。而も可なり赤裸々に。
又、それ故にこそあの夥しい客が道頓堀のカフエーに惹きつけられるのだ。カフエーの繁昌するのはそこの料理が美味であることよりも、どんな女給がゐるかに依つて决定される。
勿論女給は美人でなければならぬ。美人であつてもサービスが悪ければ+-で零になる。けれども、今日では単なる御叮嚀主義のサービスは客の心を惹きりけない。いくら叮嚀でも女給が令嬢や貴婦人のやうにスマしてゐたのでは客の腰は落着かないのである。
ちつとやそつとお役所の取締りが八釜しくとも、経営者が女給に対する態度を極めて寛大にするところに客を惹きつける原因がある。料理や酒を運んで来た女給に、すぐ隅つ子の方へ逃げられたので は、お客にとつては退窟な場所へわざヽ退窟しに来たやうなものだ。
その点道頓堀のカフエーは実に要領がいゝ。女給が客といちやつくのはそれは女給の勝手である。女給が客とふざけたからとて、その為に店が損をするといふわけでもないから、エロ戦線の展開に は殆んど見て見ぬ振りの態度である。これは道頓堀に限つたことではないが、場内の雰囲気が銀座のそれに比較するとずつと気楽なことだけは争へない。
このコツが多くの客を吸引したゞけに、それに伴ふエロ問題も頻繁であつた。 そこで考へ出したのが女給の欠勤に対する罰金である。一口に云へば、経営者の方では女給に対して次のやうな訓辞を試みたやうなものだ。
「おまはんたちが休むことそれあかめヘン。君たちの体まで買ひとつてるのやないさかい、誰と遊ばうが、誰と他処行しやうがそらおまはんたちの勝手やがな。だけど店休まれるさうとやつぱり俺 の方でも困るよつて、休んだ人からは一日二円の割で前金出して貰ひたいもんやナ。」
なんと慈悲深い、抜目のない寛大さではないか。鐚一文の給料も払はない人間から罰金を取っても取られる方では喜んでそれに応じる。なぜなれば、罰金はお客はんがチャンと背負ってくれるから。
「どうや、一ぺんよそ行きしやうか。」
「えゝ行きまほう。だけどあんた罰金だして呉れなきやいややし。」
「罰金てなんや。」
「あら罰金いふたら罰金だんが。店休むには無料で休むわけにやいきまヘンネ。」
「ほう、さよか。その罰金いくらや。」
「一日二円やわ。」
「ふ、フ、えらい安い罰金やな。二円ぐらいなんでもあらへんがナ。」
ほんまに二円位なんでもあらへん。安いものである。
罰金を払っても道頓堀の女給たちは頻繁に外出した。ユニオンの踊り子たちは、男子と一緒に出かけるのを見られると、もっと高い罰金を払はされたと聴くが、それとて女の腹が痛むわけではなく、なかには月に三十円以上の罰金を払つた女もゐるといふから、彼女の発展ぶりと、店の繁昌ぷりが想像される。
酒や料理が売れなくても罰金だけで結構喰へる。
だから試みに道頓堀のカフェーの前に立って見給へ。あり余る女給がゐても、女給募集の立看板はいつも店の前に哂されてゐるから-。つまり募集する端から女給が雲隠れして了ふ証拠が如実に表現されてゐるわけだ。
或る大カフェーなどに至っては、百人近い女給が連名して産児制限協会の相談所に入会を希望し、子を産まない方法を構じて貰はふと訴へたといふから、図々しいのもそこまでゆくと愛嬌である。協会の方では之を一笑に附して拒絶したが、女給が制限しなければならない程子を産むのかどうか?多分産むのであらう。
すべての女がさうときまつてはゐないが、道頓堀には凄腕の女給が多い。男と一緒に外出することを、妻が夫と連れ立って外出する位にしか考へてゐないのだ。
従つて、さうした感染力はすぐに第二の女、第三の女へと伝はつて行き、甚だしいのになると、初めて会つた男と外出の約束をして、その二日後に間違ひなくそれを実行したといふ余りにも尖端的な 女さへゐた。
又、道頓堀の女給を喰物にしてゐる不良ガイドも沢山ゐて、これらの一団は築港附近に網を張る。
船員が上陸する時間をみはからつて、潜行的な誘惑を試み、殊に対手が外人となるとべら棒な金額を捲きあげる。
某カフェーにゐたM子といふ女などは、自分から進んで外人にだけ体を提供し、いろいろな外人に接するのを一種の猟奇趣味としてゐたといふから驚くの外はない。
彼女は日本人は余り顧みない代りに、外人となら郊外のドライヴや、松竹座の映ホテルの楽しい寝室や、その他どこへでも出かけて行つた。
独身者のくせに立涙な家に住んで、次から次へと一寸みたところではまたセツクスの何ものかをも知らないやうな初々しい顔をしてゐて、身の廻りの贅沢さに恰かも由緒ある人のマドモワゼルのやうであつた。
横浜生れだと云つてみたり、東京育ちだと云つてみたり、その都度彼女の生れ故郷は変るのであるが、大阪の女でないことだけは彼女のアクセントが証明してゐた。
だらしない姿でホテルに宿つてゐる処を襲はれたときなども、彼女はケロリとして警官に喰つてかかつた。
「あら、外人を恋人にすればそれがどうしていけないの。妾し淫売ぢやないわよ。恋人とれば警察の御厄介にならねばならないなんてそんなバカげたことはありませんわ。」
警官がどんな証拠品を押収して引あげたか、それまでは聴きもらしたが、兎に角M子が二十日のブタ箱に叩きこまれたことだけ事実である。それ以来彼女の姿は道頓堀から消えて了つた。あとでそれを知つた大阪美人たちは、自分たちのふしだらを棚にあげて、
「東京の女は凄うおまつせ。」
は少々呆れざるを得ない。
看板さへ立てゝをけば、女給志願の美人は後から後からと幾らでも出て来る。
おまけにサービス用のマツチからツマ楊子まで女給に負担させてをいて、罰金の収入が月に九百円もあったといふ店があるから阿然として物が云へない。
さてかうなると、客の方では同じ金を使って、ポンヤリと人のすることを見てるるのは莫迦々々しい。五度に三度の拒絶は覚悟をして、我も我もと変な野心を抱くのである。
道頓堀の淫風はかくて嵐の如く吹きまくった。衣裳と化粧が唯一の資本である女給たちは、互ひにその美を竸ふことに腐心する。
A子にいゝ人が出来れば、B子だって指を喰へて見てるるわけにもゆくまい。B子が商価な着物を求めればC子もそれ以上のが欲しいのである。
優越感の示し合ひ-その点女といふものは誠に浅はかなもので、チツプの五円も出して呉れる人があると、もうー歩進んで体を投げ出せば、きっと五十円位は呉れるだらう、帯も買って貰へるし、羽織も買って貰へるだらう!―と先の先まで考へすぎて、わけも雑作もなく男のなすがまゝに身を委ねるのだ。
げに道頓堀の女の寿命の短かさよ!前の晩までゐた女が、その翌晩は何処に消えたものか同僚さへ知らない。
行先の分らない女に来たラブ・レターだって、却々すくない数ではないが、道頓堀の女にさへ今時ラヴ・レターを出す純な青年もゐるのかと思ふと、不愍でもあり滑稽でもある。
純愉だとか熱愛だとかい、文字は、十九世期浪漫派詩人の遺物である。
「人生の幸福はその九割までは金の力にこれを求めることが出来る。」
ショウペンハウェルはうまいことを云ってゐるさ。一九三一年代の女給は、何よりも先づポンと投げ出された五円札を尊重しますよ。惚れようか惚れまいかはそれから後の問題である。
「あまりケツタイなこと云はんといてお呉れやす。」
或ひはかう云って抗議を申込む女給さんがゐるかも知れぬ。さうさう、一厘のチツプも、一円のお頂目も貰はないで、交代々々に或る若い不良と
女給さんもウヨヽしてゐましたっけ
ネ。
この果報な青年ば西国の情話作家で、色が浅黒くて筋肉が引締つて、寒い頃にはトルコ帽に茶色のマントを着てゐます。尖端的ではないが変つたスタイル、彼のパキパキした態度が妙に女給の心を惹きつけるのだとさ。
何と恵まれたる作家よ!
ソーダ水や、コーヒー一杯のんでは、五分か三分の間にすらすらつと女給を承諾さす手腕ばたいしたもの。
おまけに女給が貰つたチツプを半分借りて、次のバーヘ行つて飲む糞度胸に至つてば、チツプを出した方ではケヤ糞が悪からう。
お金を貰つて賤しい行ひをすれば売淫である、貰はないで投げ出すのが神聖なラブ。
然し大低は二刀流の達人だから、ナルベクなら神聖なラブを選ぶに越したことはない。
もう一人彼の情話作家に負けないエロ傑がゐる。道頓堀のFといふ活弁だ。
滔々懸河の弁を奮つて艶物映画の解説をやる彼の声量、そのパツンヨネートな名句調、これが女をチャームする資本である。
金儲けのための仕事が女に好かれるのだからいゝ商売だ。
「彼女は泣いた。声を限りに泣きじゃくつた。その余りにも無情な男の心を呪ひ乍ら、暮れて行く森の中で、いつまでも、いつまでも……」
てなことを云つてゐれば、女なんて奴はたいていホロリとなるのだから情けない代物さ。
彼に頼んで映画を無料で見せて貰ふことは、五十銭や一円に換へられない誇りである。
女はつまらない所で威張りたがる癖があるから、その弱味をガッチリ掴んだのがFの女性操縦術である。
「いつ見に来てもかめへんけど、あれこれ云はれるとうるさいよつて、誰にも内密にしとかんとあかんぜ。」
Fからかう云はれると、云はれた女給はまるで鬼の首でも取つたやうに有頂天になる。Fの方では どの女にもさう云つてゐるのだが、女にはそれがわからない。自分だけが特別の好意を恵まれてゐると思ふから、彼女の方でも特別の好意を捧げるのである。
カフェーで拾円も拾五円も便つてゐる男を見ると、そんな奴はみんな間抜面に見えるといふが、それはさうだらう。
彼のさうしたトリックがバレて、女給同志の間で喧嘩があつたとかないとか云つて、気を揉んでゐる岡焼もあれば、Fは色魔だといふ悪評がたつても、益々彼に熱をあげてる女給もゐる。
「あんな色魔みたいなもの妾え嫌やし。」
と悪口つく女が、すぐに彼の誘感にかゝるから面白い。かうなると女の方では互ひに悪口を云ひ合ひ乍らも、腹の中ではシノギを削つての奪ひ合ひだ。
それはそれとして、さてこのカフェーなるものは今後どこまで発展して行くのであらう。
娼妓を泣かせ、芸妓にベソをかゝし、待合から料理屋から、縦横無盡に薙ぎ倒してゐるエプロン・ガールは、実に山羊の群を追ふ猛虎の如き観があるではないか。
凡ゆる公娼は今や将に危地に突き落されんとして、カフェーなるものを極度に軽蔑しながらも、己自身がカフェーの女給化しつゝあるところが笑へない悲劇である。
現代人の猟奇趣味はもはや金で自由になる女にはだんだん遠ざかつて行く。
公娼よりも私娼に興味を感じるやうになつた傾向は、誰が何と云つても争へない事実だ。悪い傾向である。
満腹に山海の珍味よりも、空腹に麦飯の方が遙かに美味であると同じ様に、同じやうな遊びでに誰でも飽きが来るのだ。
実際またさうではないか。僕たちが五円もつて公娼を求めんとすれば、自由なる選択と、自由になる奴隷化した女がいくらでもある。然し、女給となるとさう簡単には制御できない。若干の努力と、期間と、忍従との苦い快味を経験しつゝ、一歩々々近づいて行かねばならないのだ。
たとへ二三回の顔見知りで、懇意になつたにせよ、公娼と女給とでは、釣堀の鯉と、深い海の底から釣り上げた黒鯛くらゐの相違がある。
簡単で安直に遊べるからカフェーがいゝといふ時代は既に過ぎた、
大都会のカフェー経営者は、表面的にはどんなに上品なことを云つても、その勝敗如何はひとへに女給の活躍によつて決定される。
そんなベラ棒な話があるかないか、疑問のある方はドシドシカフェーの入口を潜つて御覧になつたがよからう。
と云つて、僕はエロを宣伝するためにこんなことを云つてゐるのではない。
現代人の動きをそのまゝに表現してゐるのだ。ダンアツが風紀取締りにどの位効果があるものか僕には分らない。けれども、ダンアツがある度に商売人といふものは怜悧になる。あの手でいけなけれ ばこの手、この手でいけなければあの手と云つた工合にネ。
風俗を紊すのは女給が悪いのか、それともお客の方が悪いのか?
露と尾花の喧嘩である。
だから、道頓堀の女給を怪しからんと云ふ前に、女給の人数々制限すれば余程エロエロ問題は緩和されるに違ひない。
第一百人も百五十人も女給を置くことを許すのが間違ひである。でなければ、女ををいて男を寄せつけるやうな商売は一つ残らす叩きつぶした方がいゝ。ねえ、さうではありませんか。
然らば道頓堀といふ所はどれもこれもエロエロ女給のカフェーばかりかといふとさうではない。
和洋とりどりの食堂がバラ撒いたやうに軒を並べて、凡ゆる階級を吸ひ込んでゐる。
弁天座の隣りには文学青年の寄りつくカフェー珊瑚、これは西山千代子女史の経営で高尚な喫茶店と云つた感じである。
新戎橋の南詰を入るとスポーツマン清川氏経営のキヨカワ、戎橋西入口新派俳優の梅島昇の二号か三号かの女がやつてゐるカフェープラムがある。
こゝでは且那を連れ出した南地の芸妓たちが、芝居見物や欲しいものをネダつてペチャクチャ喋舌つてゐる姿が毎日のやうに見受けられる。
カフェー以外の食堂はこれ又夥しい。
小つぽけな一ぜんめし屋の長行燈が成功して、レストランを始めたのもあるし、古くから独得の料理を自慢にした食堂もある。戎橋の魚すき丸万と云へば、道頓堀を知つてゐる程の人は誰でも知つてゐるし、元治元年の創業だといふから戚張つても仕方があるまい。もう一つ誰でも知つてゐるのが出雲屋のうなぎ、関西人に云はすとまむしである。この店は古くはないが安いので有名、口の悪いのが、余りに安いので蛇だらうといふ。蛇ならもつと高いかも知れぬ。
近来めきめきと売り出した店に柴藤があり、道頓堀の旧い老鋪東呉に対抗して些か優勢の地位を占めてきたのは、場所がいゝのか、それとも料理がうまいのか、或ひはもつと別な理由があるのか、兎に角素晴しい繁昌を示してゐる。
その他、カフェー大正亭、南海食堂、みどり、みやけ、かどや、浪花亭を始め大阪ずし、東京ずし、天ぷら屋、喫茶店など一々列挙したつて、別に大した興味もあるまいから省略するが、大阪見物に来 た程の人なら、宗右衛門町の菱富や、法善寺境内のみどりあたりで、あつさり拾円位の晩餐をとつてみるのも話しの種になつていゝだらう。