道頓堀

人間の頭数からいふと、兎に角大阪は日本一の大都会である。

経済的な見方をすれば、これ又日本一の大商工業都市である。

上方の贅六ども喜ぶまいことか、

「そらなんちうたかつて、大阪が日本一やもんな。」

さて、その日本一の大都会は、産業資本家の密集地帯だけあつて、金といふものに対する考へ方が他の如何なる土地よりも発達してゐる。人間が金を支配する時代が過ぎ去つて、金が人間を支配する 世の中になつたが、その最も代表的な都市は大阪であらう。

だから市井の人の日常の挨拶でも

「どないだす。此頃はよう儲かりまつか?」

といふのが一種の合言葉だ。

宵越しの金を使はぬと誇つてゐた江戸つ児気質も、金の方面では今や完全に上方の贅六に一歩を譲つた。

「金はジャンジャン儲けてジャンジャン使はなけあ嘘だんが。」

まことによく大阪の人間は金を使ふが、儲けることにかけても抜目がない。

所謂、算盤だまを弾く能力に於ては、遺憾ながら到底東京人の敵ではないのである。

大阪の歓楽郷が今や東京のそれを凌駕せんとしつゝある形勢も、その帰趨するところはつまり大阪商人の頭の働きがすばしこいからに外ならぬ。

過ぐる関東の大震災によつて、東京の人々が華美と流行とを大阪に追払つてからといふもの、工業都市としての大阪には、エロとグロの世界が徐々にその翼をひろげて行つた。

かくて、昭和の時代に入つて一時にパツと開いたエログロの蕾は、こゝに百花満開の燦爛たる美観を呈してそのクライマツクスに達したのである。

では僕たちはどんな花から摘みとつたらいゝのであらう。

先づ大阪の夜を彩どる最も美くしい花、関西つ児が鼻の先を蠢めかして自慢する道頓堀から入つて行かう。

赤い灯、青い灯、道頓堀の 河面にあつまる恋の灯に なんでカフェーが忘られよか

これは道頓堀行進曲の一節だ。

又、昭和三四年に全国津々浦々に流行した浪花小唄には

燃えて火となる私しの心 こがれこがれりや火ともなる テナモンヤナイカヽ道頓堀よ

いとし糸ひく雨よけ日よけ

かけた情けを知りやすまい

タナモンヤナイカヽ道頓堀よ とある。

四季を通じての道頓堀の賑やかさはダンゼン大阪一であり、道頓堀あつての大阪だ。

面積は別として、その構成からいふと道頓堀ほど纏まつた歓楽郷は日木にはない。銀座・浅草と築地を一緒にして、その側に新橋を加へたやうな道頓堀。

なればこそ僕の悪友であり、船場問屋のドラ息子瀬川均が僕に向いて威張るのである。

「日本歓楽郷を書くんやつたら、そらどうしても道頓堀を日本一にせにやあかんぜ。」

あかうとあくまいと余計な世話だが、瀬川のいふ処を聴けば

「お前がどない云ふたかて、道頓堀よりえゝとこ日本にはあらヘン。銀座がえゝの浅草がえゝのいふても、そらほんまに比較にならんぜ。そやないか、銀座はデパートとカフェーのけたらあとになんにもあらへんし、浅草はゴチヤゴチヤと安もんばかり並んで、寿司屋の陳列そつくりやないか。」

贅六のくせに鼻息はなかヽ荒い。

なる程、さう云はれてみると、一等八円の鴈治郎の芝居もあれば、入場料十銭の寄席もある。

戎橋から日本橋まで僅か二丁そこそこの道のりではあるが、前後左右を包含しての道頓堀は、そこに一大歓楽郷としての凡ゆる機関が備はつてゐる。

この光彩陸漓たる状景を一度に表現することは出来ないから、兎に角道頓堀を中心として、隣り合せの宗右衛門町、芝居裏から法善寺境内附近へかけての状景を分割して説明した方が便利であらう。